★カントリー空気★
平安時代人と月
SINCE 2008年4月8日
最終更新日 2008年5月30日
「平安時代人と月」に関して思ったこと調べたことを書いていきます。
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奈良時代、阿部仲麿(あべのなかまろ)は十八歳で遣唐使として中国へ渡りました。
三十数年にもおよぶ留学生活を終え日本に帰る送別会の席で彼は「月」を和歌に詠みました。
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
(大空をふり仰いで見てみると月が見える。
年月も経過し、場所もここは唐土=中国ではあるが、ああ、この月は。
かつて奈良の春日の三笠山の上に出ていた月と同じ月だ。
もうすぐ、奈良へ戻り実際に三笠山の上の月を見ることができるぞ!)
「山の上の月」です。
私が見ている月もいつも山の上の月です。
甲府市に住んでいる時もそうでした。甲府市は山に囲まれた盆地ですから。
現在は富士吉田市に住んでいますが、ここも山に囲まれていますので、
(山間地域というのでしょうか?)見る月はいつも山の上です。
現在、生活の中で「月」を全く意識しないということはありません。
今日は月が大きく見えるとか、やけに赤く見えるとか。
薄雲に覆われているのを見ては、
「今夜はおぼろ月だから、明日は雨だね」とか。
時々は、会話の種にもしています。
しかし、古代人(奈良時代、平安時代、それよりもっと以前。また諸外国において)にとって、
月はもっと身近で印象深く、また神と捕えられたり、暦として使われたりと、
鑑賞的にも実際的にも密接な存在であったようです。
古代の人々はどのような月を見ていたのか。少しずつ調べていきたいと思います。
ところで、阿部仲麿。
このような感激を胸に送別の宴を催してもらったにも関わらず、
船が遭難し、日本へ帰国することはできませんでした。
彼は、日本に帰ることができないまま唐土で没(ぼっ)したのです。
(2008年4月8日)
A
奈良時代より以前、飛鳥時代と呼ばれている時代があります。
まだまだ政治・制度が不安定、逆にいえば政治・制度が定められつつある時代です。
聖徳太子は「冠位十二階の制度(身分制度)」や「十七条の憲法」などを作りました。
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、後の天智天皇
は藤原鎌足(ふじわらのかまたり)とともに
当時、天皇家をしのぐ力を持っていた曽我入鹿(そがのいるか)を打ちとりました。
「大化の改新」です。
骨肉の争い(親とか兄弟とか血のつながりの濃いもの同士の争いのことです)もありました。
「壬申の乱(じんしんのらん)」が有名です。
「壬申の乱(じんしんのらん)」とは、
大化の改新の中心人物「天智天皇(中大兄皇子)」の実子「大友皇子(おおとものみこ)」と
「天智天皇(中大兄皇子)」の弟「大海人皇子(おおあまのみこ)」の「天皇」の座をかけた争いです。
血縁関係的に言えば、叔父と甥の争いだったのです。
結果は「大海人皇子(おおあまのみこ)」が勝利し、天武天皇となりました。
ちなみに「大海人皇子(おおあまのみこ)=天武天皇」の妻は
後に持統天皇(じとうてんのう)となりますが、天智天皇の娘でもあります。
この時代「額田王(ぬかたのおおきみ)」という女性がいました。
当時は平安時代などよりも自然との結びつきも強く、森羅万象に神々が住んでいた時代です。
当然「言葉」にも力がありました。
高台に登って土地を眺め渡し、その土地の地霊に向かってほめ言葉を歌いかけることによって
その年の五穀豊穣(豊作)を願う歌(あらかじめ豊作になると想定し祝う歌)
などは、それだからあったのです。この歌のことは国見歌(くにみうた)と言います。
「額田王」は、天皇家に仕え力を持った言葉を巧みに使い様々な歌を作りました。
天皇の代作もしています。
それは、「良い結果を得るための良い言葉」であったりもしましたが、
時として素直な感情を語ったものもあり、現在に幾つもの歌が残されています。
「熟田津(にきたつ)に 舟乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな」
額田王の歌です。(異説もあります)
万葉集に載せられています。
「熟田津(にきたつ)で 船出をしようと 月の出を待っていると 潮もちょうど満ちてきた。さあ今こそ漕ぎだそう!」
斉明天皇(さいめいてんのう)の代わりに詠んだのです。命令的な口調はそれだからです。
朝鮮半島において
「新羅(しらぎ)という国」に圧迫されていた「百済(くだら)」という国を救援するための戦に赴く時、
出港を前に詠まれました。
「月待てば」は、月の出を待っていたと考えて良いと思うのですが、
当時夜の航海は一般的ではなかったので、潮が満潮になる「新月」または「満月」の時期を
待っていたという意味ではないかとも言われています。
ところで額田王。
この女性は、はじめ皇太弟である大海人皇子(おおあまのみこ)の妃となり十市皇女を産みました。
しかし、後には天智天皇(大海人皇子の実兄)の妃となりました。
このことが、兄弟の不仲を招いたとも言われています。
(2008年4月10日)
B
「古事記」は、稗田阿礼が語った勅語旧辞を太安万侶が編纂・記録したもの。→712年完成。
「日本書紀」は、天武天皇の発案によりその子である舎人親王が記したもの。→720年完成
「古事記」は物語的要素が強く、
「日本書紀」はそのままうのみにはできないながらも歴史書としての要素が強いと言われている。
「日本書紀」は、「神代」の章から始まる。
この章に書かれているのは、子供の頃絵本などで親しんだ日本神話だ。
例えば、スサノオノミコトのヤマタノオロチ退治など。
その後は、神武天皇から持統天皇まで、紀伝体の体裁で記されいく。
さて、古代人も「太陽」の力強く輝く美しさとともに
「月」の妖しく美しい光に魅了されていたようである。
太陽神は「天照大神(アマテラスオオミカミ)」。
月神は「月読尊(ツクヨミのミコト)」と名付けられていた。
「日本書紀」では、二人の誕生は次のように記されている。
火の神(カグツチとか、火産霊=ホムスヒとか)を産むときに
焼け死んだ妻イザナミノミコトを追って夫イザナキノミコトは黄泉(よみ)の国の入口まで行く。
その入口あたりを泉津平坂(ヨモツヒラサカ)という。
そこでイザナキノミコトとイザナミノミコトは決別する。
現界に帰ったイザナキノミコト(夫のほう)は、
「私は先ほどひどく汚い所へ行ってきた。だから私の体の汚いところを洗い流そう。」
と考えた。
そこで、筑紫の日向の川まで行き、身を洗い清めた。
(物理的な汚れのみならず、心理的なケガレ・ヨゴレも水で洗い流せると古代人は考えていた!)
その際、
左の眼を洗うと、天照大神(アマテラスオオミカミ)が生まれ
右の眼を洗うと、月読尊(ツクヨミノミコト)が生まれ
鼻を洗うとスサノオノミコトが生まれた。
「アマテラスオオミカミ」と「ツクヨミノミコト」は、妖しいほどに美しかった。
それで二人は天に送られた。
暴れ者で泣きわめく性癖のある「スサノオ」は、根の国へ送られてしまう。
ところで、
天(高天原)に送られた二人だが、太陽と月に分かれその後顔を合わせなくなる。
そのいきさつも日本書紀にはしるされている。
ある時、アマテラスは弟ツクヨミに、葦原中国(アシハラナカツクニ=日本)にいる
保食神(ウケモチノカミ=食べ物を司る神)に会ってくるようにお命じになる。
保食神(ウケモチノカミ)は、口から米の飯・大小の魚・毛皮の動物を出し、
美しい月読尊(ツクヨミノミコト)をもてなした。
ところが、月読尊(ツクヨミノミコト)は
「けがらわしい。いやらしい。口から吐き出した物を私に食べさせようとするとは!」
と激怒し、保食神(ウケモチノカミ)を剣で撃ち殺してしまう。
高天原(タカマノハラ)に戻り一部始終を姉アマテラスに伝えると
アマテラスは、
「お前は悪い神だ。もうお前には会いたくない。」と言われた。
それ以後二人は昼と夜に別れて暮らすようになったのである。
どこを治めたとか、話しの構成の順番などいろいろな説が「日本書紀」には書かれている。
「ある書物ではこう言っている。また別の書物ではこう言っている。」という形で。
ここに書いたのは、全ての説の中のほんの一部です。
それにしても「アマテラス」と「ツクヨミ」が妖しいほどに美しかったという記述。
「日本書紀」が書かれたのは、奈良時代だが、
この時代の人々も、やはり「美しいもの」に対し憧れと畏れの感情を抱いていたことが伝わってくる。
(2008年5月30日)
【目次】
1≪カントリー空気≫―文学や植物(2008年度)―・・・トップページです
2平安時代人と月
3本の紹介(絵本やマンガなど)
4古本販売(絵本)
5今日の天気、時々我が家の植物
6ギャラリー・・・管理人制作のハンギングバスケット・寄せ植え・モストピアリー
《その他》
7ご注文方法・発送方法
8ご注文フォーム
9お問い合わせフォーム
(わからないことなどございましたら、遠慮なくお問い合わせください。)
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1カントリー住人による思い込み古典講座
2植物にチャレンジ!―管理人の失敗もある植物体験記録―