カントリー空気

☆コラム☆カントリー住人による〈思い込み古典講座〉


―拙文をいつも読んでくださり、ありがとうございます。
このコラムには、極めて鑑賞的な部分が多々あります。
決して試験や受験勉強の参考にはしないでください。―


   SINCE 2007年3月吉日

最終更新日 2008年1月28日



【参考文献】
[1]古今和歌集←『古今和歌集(一)〜(四) 全訳注』久曾神昇・・・講談社学術文庫


※ 古典の本というとハードカバーで分厚いものを想像しがちですが、
「講談社学術文庫」は当然文庫本ですので、扱いやすく読みやすいです。


[2] ちんちん千鳥のなく声は●日本人が聴いた鳥の声●山口仲美・・・大修館書店

※例えば、カラスは「カアーカアー」と鳴きますね。
これはなるべく忠実にカラスの鳴き声を再現したもの(写声語)です。
ところがこのカラスの声に意味を託し、
カラスの鳴き声を「子か子か」「可愛可愛」と聞く場合があります。
   これを「写声語」に対し、「聞きなし」と言います。

この本では、万葉集から現代の動揺にいたるまでの広い対象を参考に採り、
「千鳥」をはじめとして「ほととぎす」「うぐいす」などの野鳥の声に
日本人がどのような意味合いを託し、
聞きなしてきたかが語られています。
1989年初版とかなり古い本ですが、とてもわかりやすく興味深く読むことができます。
「理科系」ではなく、「国文学系」「民族学系」の内容です。



21

お正月には、『百人一首』をして雅(みやび)に少しだけ触れました。
この『百人一首』とは、鎌倉時代に藤原定家(ふじわらのていか)が選んだ百首の歌をもとにして
マイナーチェンジが繰り返されながら現在の形に固定されていったものだと言われています。
ところで、『古今和歌集』を読むと
「あ、この歌、百人一首で聞いたことがある」という歌にしばしば出会います。
実際のところ、 百首のうちの約4分の1に当たる24首が『古今和歌集』より『百人一首』に採用されています。
その中から選者たちの歌を挙げてみます。


【人はいさ心もしらずふるさとは花ぞむかしのかににほひける 紀貫之】
巻第一 春歌上  通し番号42


【久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ 紀友則】
巻第二 春歌下  通し番号84


【心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花 凡河内躬恒】
巻第五 秋歌下  通し番号277


【有りあけのつれなく見えし別れより 暁ばかり うき物はなし  壬生忠岑】
巻第十三 恋歌三  通し番号625


貫之と友則の歌は、それぞれの作風の中より極めて代表的な歌が選ばれている気がします。
貫之→斜(しゃ)に構(かま)えた物事の捉(とら)え方。破たんのない小気味よい理屈っぽさ。
友則→純粋で透明感のあるおだやかさ。それは時として張りつめた悲しさを感じさせる。優美な調べ。
この二人の歌風は、古今和歌集の中でも独自性があり別格です。


凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)→
貫之と年齢が近く、親交が深かった人物です。
選者たちの中では、貫之に次いで多い60首が「古今和歌集」に載せられています。
貫之と親友であった結果だと思われます。
ちなみに、貫之98首、友則46首、壬生忠岑(みぶのただみね)36首です。


百人一首に採られているこの歌【心あてに 折らばや折らむ 初霜の 置きまどはせる 白菊の花】、
意訳してみると
【もし折り取るならば、当て推量で勘を働かせて折りましょう。
初霜がおりてどこに白菊があるか分からなくなってしまっている白菊の花を。】となります。
「そんな馬鹿な!」です。
いくら霜が白いからといって、
霜が降りて白菊がどこにあるかわからなくなってしまうなどということは考えられません。
この歌をなんのてらいもなく言ってのけ、にやりとする躬恒。
「馬鹿なことを」とからかいながらもその堂々とした歌人の態度に好感を覚える平安貴族たち。
そんな言葉遊びの場の情景を空想してしまいます。


壬生忠岑(みぶのただみね)→
壬生忠見(みぶのただみ)の父です。
壬生忠見(みぶのただみ)は、歌合わせにて僅差(きんさ)で惜敗(せきはい)し
それがもとで病気になり死んでしまったと言われている人物です。
その歌合わせの時の壬生忠見(みぶのただみ)の歌も相手の歌も百人一首には収められています。


ところで、壬生忠岑(みぶのただみね)の歌です。
【有りあけのつれなく見えし別れより 暁ばかり うき物はなし】
「有あけ」は「有り明けの月」を表しています。
夜が明けてもまだ空に残っている月です。
その「有り明けの月」を「つれなし(思いやりがない)」と感じながら女との別れの時に見たのです。
それ以来「夜明けほど嫌なものはない」と思うようになったと言っているのです。
間違いなく恋の歌なのですが、疑問が残ります。
壬生忠岑(みぶのただみね)は、なぜそんなに夜明けが嫌になったのでしょうか。
@一夜を共に過ごした女とずっと一緒にいたかったから。
A女に「今回で最後にしましょう」と言われてしまったから。←女にふられた。
B有り明けの月のせいで、女のもとに通っていた自分が帰る姿を誰かに見られてしまったから。
C実は通っていって明け方まで待ち続けていたのに、
結局女は会ってくれず帰らなければならない時刻(明け方)になってしまったから。
←女と会えないままの別れです。
真実に最も近いのはどれなのか?


こんなことを考えていると明け方になってしまいそうなので、
疑問は疑問のまま残しておきます。


平成20年1月28日


S

【はるたちける日よめる】(立春の日に詠んだ歌)
【袖ひぢてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらん 紀貫之】
巻第一 春歌上  通し番号2


新春の言祝ぎ(ことほぎ=言葉で祝う)です。
実際には多少ずれてしまってはいたようですが、立春と元旦はほぼ一致するように工夫されていました。
したがって「春立つ日」とは、「立春」のことであると同時に「ほぼ元旦」を表しています。


あの夏の日、袖をぬらしながら手ですくった水。
その水が冬の寒さで凍ってしまった。
しかし、立春の日の今日、暖かくなった風がその凍った水を解かしていくことだよ。
おだやかな初春(はつはる)の情景です。


ところでこの歌、全て貫之の独創というわけではありません。
「孟春の月、東風氷を解く」という「礼記」の詩句がもとにあります。
【袖を濡らしながら手で水をすくった夏の日の情景】のみが貫之の独創です。
この時代の男性知識人にとって漢文の素養は必須項目でしたから
当時詠まれた歌には、このように中国の書物の詩句をふまえて作られているものは少なくありません。


【さくらの花のもとにて年のおいぬることをなげきてよめる】
(訳 美しい桜のもとで年をとったことを嘆いてよんだ歌)
【いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける きのとものり】
巻第一 春歌上  通し番号57

(訳 桜の花は色も香も昔と同じように咲いているようであるが、
年をとった人〈私〉は、いつしか姿が変わってしまったことだよ。)
この歌などもそうです。


【年年歳歳花相似。(年々歳々花相似たり。→毎年、花は同じように咲く。)
 歳歳年年人不同。(歳々年々人同じからず。→しかし、毎年、同じ人を見るということはない。)】

【唐詩選(とうしせん)】に収められている【劉希夷(りゅうきい)】の詩です。
友則はこの詩を着想のもととして上記の歌を詠んでいます。
ただし、そのまま日本語に置き換えているわけではありません。
もととしながら、独自の視点を織り込んでいるのです。
【劉希夷(りゅうきい)】の詩では、
【花は変わらずに咲く。しかし、いつまでも同じ人がいるわけではない。
(人は移住してしまったり、死んでしまったりする)】と述べています。
しかし、友則は、【老いに伴う自己の姿の変化】を変わらず美しく咲く桜の花と対比しているのです。


先にも述べましたが、漢文の素養は当時の男性知識人にとっては必須項目だったわけですから
この類(たぐい)の歌を聞いた時、聞き手(当然 知識人階級です。知識人階級=貴族なのですから)は、
「ああ、あの書物の誰誰のこれこれという詩句を踏まえての歌だな。」
と思うわけです。
そう思った時、
〈詠み手がうまくその詩句を使いアレンジしたことへの讃嘆〉と
〈自分がそれを見破ることができたことへの満足〉が生まれるのです!


さて、冒頭の「はるたちける日」に詠んだ貫之の歌です。
貫之の歌と言えば、理知的というのが定評です。
確かに水を主題に据え、「夏→冬→春」とその変化を詠みながら「初春を言祝ぐ」という構図は理路整然としており
貫之の理性を感じます。
しかし、この歌を読むと実は貫之、机上で理性のみを頼りに言葉遊びをしていれば良いという立場にあったわけではなく、
かなり自然の変化を実感する(または実感しなければならないような)生活していたのであろうと想像されてしまいます。
平成20年1月9日


R


「お歳暮(せいぼ)」の時期です。
読んで字の如(ごと)く「歳暮(せいぼ)」とは、「歳(とし)の暮れ」のことであり
まさに今の時期を指す言葉です。


【枕詞】年のはてによめる(年末に詠んだ歌)
【昨日といひけふとくらしてあすかがは流れてはやき月日なりけり  はるみちのつらき】
(巻第六 冬歌 通し番号 341)


【意訳】
「昨日はどうであったと言い、今日はどうである、さて明日か。明日はどうなることやら。」といった具合に日々を暮らしていると
明日香川の流れのように、月日はあっというまに過ぎ去っていってしまうことだよ。


日々の生活に追われ、あっというまに月日が過ぎ去っていってしまうことへの実感、
または驚き、または嘆き、またはあせりが表現されているわけです。
現代を生きる我々と同じ感慨を平安時代人が持っていたことに驚きを感じます。
ところで「あすか」の部分についてですが、ここでは掛詞(かけことば)として用いられています。
「あすか=明日か。明日はどうなることか」と
「山間の急流で、流れが速いこと(と淵瀬の変遷で河道が定まらないこと)で知られる【明日香川】」
の二つの意味を表現しているわけです。
◎「昨日はどうであったと言い、今日はこうだと言い、さて明日は」と送る人生は
あの明日香川の急流のようにあっという間に過ぎ去っていくことだよ。◎
流れの良い分かりやすい歌です。


【枕詞】「歌たてまつれ」と仰せられし時によみてたてまつれる
(「歌を奉れ」と仰せられたときに詠んで奉った歌)
【ゆく年のをしくもあるかなますかがみ見るかげさへにくれぬと思へば  きのつらゆき】
(巻第六 冬歌 通し番号 342)


「貫之」の社会的存在価値は「歌を詠むこと」のみです。
身分の低い彼にもし歌を詠む才がなければ、彼は「世の中を憂(う)し(=つらい)」と
感じ続けながら生きていかなければならなかったことでしょう。
「歌たてまつれ」。これは上位者(※ 多分ここでは天皇であろうということです)の言葉です。
即興であれ、すらすらと一定レベル以上の歌を詠むことが彼には求めれていました。
ここで「詠めません、思いつきません」などということがあれば、
それこそ「お前のかわりなどいくらでもいるのだぞ」ということになったにちがいありません。
「貫之」はそういった緊張感を飲み下すことのできる強心臓の持ち主であったことでしょう。


ところで、上記の歌を訳してみます。
「過ぎ去ってゆく年が惜しくてたまりません。
澄んだ鏡(ますかがみ=真に澄んだ鏡=真澄【ます】みの鏡)に映して見る私の姿までが
過ぎゆく年とともに暮れていくように思われますので。」
年月が過ぎてゆくことと自分が歳をとっていくことを重ねたわけです。


この歌のどのあたりが一定レベル以上なのか疑問を感じるかもしれません。
「ああ、やだやだまた1年がたっちゃったわ。わたしもまた年とっちゃうじゃないの。」
確かに誰でも、田舎のおばちゃんでも言いそうな内容です。
しかし、ここで考えなければならないのは
この歌、天皇であろうと思われる人物から「歌を詠め」と言われ作った歌だということです。
「私めらなど、つまらぬ人間はこうして年を重ね老いてゆきます。それは本当に悲しいことです。」
と嘆いて見せているわけです。
言外に「特別な存在であるあなた様とは違うのです。」という気持ちを込めながら。
「相手と自分との対比」
その時、自分を下げることにより相手を気分良くさせているのです。
貫之は、上位者に可愛がってもらうためなら結構なんでも言うことのできる人物だったようですから
それぐらいの意図は間違いなくあったことと思われます。
平成19年12月27日


Q


「冬歌」29首の大部分は、「雪」の歌です。
雪以外の風情を詠んだ歌は、最初と最後のそれぞれ3首のみです。


古今集より少し時代はくだりますが同じ平安時代に、
清少納言も「枕草子」冒頭第一段において、冬の雪の素晴らしを述べています。
ただし、「早朝の雪景色」を切り取った点や「火鉢の火」に趣を感じている点に
作者の独自の視点が感じられのですが。
【枕草子】より、その部分を抜粋してみます。


「冬はつとめて。
雪の降りたるはいふべきにもあらず、
霜のいとしろきも、
またさらでもいと寒きに、
火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、
炭櫃、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。」


(意訳)
冬は早朝が好き。
雪が降っている早朝の風情は言葉では表現できないほど素敵。
雪が降っていなくても、霜が降りて地面が白くなっているのも素敵。
またそうでなくても、とても寒い朝に
火を急いでおこして、廊下を火鉢に入れるための炭を持って運んでいくのも
冬の朝にとても似つかわしくて素敵。
(いかにも冬の朝って感じがするの!)
でも、昼間になってくると、
寒さがゆるんできてなんとなく暖かくなってくるし、
角火鉢や丸火鉢の炭も白く灰がちになってくるしで、
素敵な風情がなくなってしまうの。


ところで、古今集です。
【雪ふれば冬ごもりせる草も木も春にしられぬ花ぞさきける 紀貫之
古今和歌集 巻第六 冬歌 通し番号 323】
[意訳] 雪が降ったので、まだ冬ごもりをしている草木も、春には見られない花が咲いていることよ。


冬ごもりをしていると言っているのだから、落葉樹でしょう。
葉の落ちた枝がむき出しの樹木です。
実際には当然花は咲いていません。
木に降り積もった雪を花と見立てて、「木に花が咲いた」と述べているのです。


宮廷奉仕者である清少納言が、自分の生活を反映させて
「冬は早朝。寒い日に火鉢の準備のために、炭を持って運んでいくのも素敵だわ!」
と述べているのに比べ、
紀貫之は「雪が降り積もった木の枝は花が咲いたみたいで素敵だなあ」と述べているわけです。
なんと他愛もない言葉遊び!
ここだけ見ると、歌詠みの男どもは、うすっぺらで脳天気という感じがしてしまいます。
しかし、逆に、
不満・不安を飲み下し、これだけしか述べないというのも一種「粋(イキ)」です。
実際は、それぞれの置かれている立場や状況・性格・信条など、いろいろな要素による結果だとは思いますが。


補足になりますが、貫之は、七十歳を越えて書いた「土佐日記」においてはかなり不平不満をもらしています。


平成19年11月8日


P


ここ2,3日気温もさがり、だいぶ秋めいてまいりました。


「秋」は平安朝の都人にとって歌を詠むのにふさわしい季節だったのだと思われます。
「古今和歌集」に採られている「秋歌」は、145首もあります。
ご参考までに
「春歌」→134首・・・春も多いです!
「夏歌」→34首
「冬歌」→29首
です。
「春」や「秋」は四季の中では気候が穏やかですから、
思索(筋道を立てて深く考えること)もしやすかったのだと思われます。
現代の「芸術の秋」「読書の秋」に通ずるものを感じます。


古今和歌集の秋のテーマをみてみると
「たなばた」・・・たなばたは、7月7日。七月は陰暦では秋なのです!
ちなみに「たなばた」は、24節気ではありません。この7月7日で固定です。
もう一つちなみに、陰暦では秋は「7月から9月」です。
「松虫」「女郎花(をみなえし)」「雁」「紅葉」「月」
「秋への愛着」「秋の寂しさ」等々。
たくさんあります。
「古今和歌集 秋歌上・下」においてそれら145首がテーマごとに分類され、
(注:「七夕の段」とか「松虫の段」とか見出しはついていません。)
それらが次の「冬歌」にスムーズにつながるように大体、順序よく配列されています。


立秋の日に詠んだという藤原敏行の歌
「あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる
(辺りの様子を見ているだけでは、秋が来たとははっきり分からないけれども
吹いてくる風の音で、秋が来たことに気づかされることだよ。)」
に始まり、

9月末日に詠んだという凡河内みつねの歌
「道しらばたづねもゆかむもみぢばをぬさとたむけて秋はいにけり
(秋が暮れて行く道をもし知っているならば、秋を訪ねて行きましょう。
しかし、その道を知らないので秋を訪ねてゆくことはできません。
美しい紅葉を幣帛〈へいはく〉として神に手向けて〈捧げて〉秋は
去っていってしまったことであるよ。」
で終わります。
みつねの歌は、秋が去ることをしみじみと惜しむ歌です。


「古今和歌集」は、このように編者たちの手によって分類・構成されています。
その結果、単なる秀歌の寄せ集めというのではなく
あたかも一編の「物語」のようになっているのです。
その完成度の高さからも醍醐天皇の勅命を受け、
その光栄に身を震わせながら必死になってこの日本で最初の勅撰和歌集を作り上げた
卑官(身分の低い)の選者たちの熱気を感じます。


平成19年8月31日


O


秋立つ日よめる・・・「詞書」です。

あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる 藤原敏行朝臣
              ≪古今和歌集 巻第四 秋歌上 通し番号169≫


【詞書の意味】
立秋の日に詠んだ歌


【意訳】
目前の景色を見ているだけでははっきりとは分からないけでども、
風の音により気がつくのです! (「ああ、秋がきたのだなあ」と。)
※語句
さやかに=はっきりと
おどろく=気がつく
「おどろく(驚く)」は、平安時代には現代と同じ「びっくりする」という意味でも
使われましたが、「はっとして気がつく」「眠りから覚める」という意味でも使われていました。
この歌では、「はっとして気がつく」の意味で使われています。


さて、秋立つ日=立秋です。
今年は、立秋は8月8日でした。毎年8月の7日か8日です。
風の音にも秋を感じることはできない時期です。ひたすら暑い。
(ちなみに、立秋以降は「残暑見舞い」になるのですが)
こういった、季節感のずれはなぜ生じているのでしょうか。
まず思いつくのは、「現代と平安時代では使っていた暦が違っていたから」ということです。
新暦と旧暦の違いです。
旧暦では、〈1〜3月が春。4〜6月が夏。7〜9月が秋。10〜12月が冬〉
というあれです。
 しかし、この説明は「こんなに暑いのになぜ立秋なの」
という【疑問に対する答えにはなりません】。
実は、平安時代に使っていた暦は、「太陰太陽暦」という暦でした。


「太陰太陽暦」とは、月の運行(太陰暦)と太陽の運行(太陽歴)と
組み合わせて作られた暦法です。
月の運行(太陰暦)だけに頼っていると、日付と季節がずれてきてしまいます。
これでは、「5月のゴールデンウィークの頃にナスの苗を植えよう」とか
「11月10日頃には初霜が降るから霜よけの準備をしよう」とか
決められなくなってしまいます。
季節を正確に反映できない、これが太陰暦の弱点なのです。
そこで季節をなるべく正確につかむために、太陽の運行(太陽歴)が
太陰暦に組み合されました。
太陽の観測をしやすい冬至を起点として定め、
1太陽年を24分割した【24節気】が太陰暦に組み合わされたのです。


【24節気】では、それぞれの間の長さは15日+約3時間です。
具体的にいえば、冬至・夏至・春分・秋分・立春・立夏・立秋・立冬などです。
これが加わることにより、季節を暦で表現しやすくなったのです。


さて、それではなぜ「秋立つ日=立秋」はまだまだ暑い盛りの時にあるのか、です。


平安時代に使っていた暦(旧暦)においても、
24節気は太陽歴にのっとっていたわけですから、
現代とさほど季節感は違っていなかったはずです。


実は、太陰太陽歴は古代中国で発明されました。
そして、6世紀ごろ日本に伝えられたものです。
ところが、
当時の日本人は、【24節気】の名称もそのままに採用してしまったのです!
古代中国の文明の中心は黄河の中流から下流一帯でした。
【24節気】の名称には当然その土地の気候が反映されています。
日本よりも寒冷で大陸的な気候です。
そんなわけですから、【24節気】の名称が日本の気候とずれてしまったのです。


平安時代の都人たちも暑さ盛りの中、「秋立つ日=立秋」を迎えていたのです。
【あききぬとめにはさやかに見えねども風のおとにぞおどろかれぬる】
この歌も涼しくさわやかな秋の日の体験を思い出しながら、
したたる汗をぬぐいながら詠んだのにちがいありません。


【参考文献】
「暦のからくり」岡田芳朗 はまの出版

平成19年8月16日


N


 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな  



この歌は古今和歌集には採られていません。
詠み手は菅原道真です。
左遷され九州の太宰府に流される直前、自分の家の庭先に咲いている梅の花をご覧になって
詠んだ歌なのです。


【意訳】
また春が訪れ東風(こち)が吹くようになったなら、
その東風に託しておまえの良い香りを私の配所(流される場所)である
筑紫の太宰府まで届けておくれ、梅の花よ。
私というこの家の主人がいなくなったからといって、
春を忘れてはいけないよ。春が来たらきちんと咲くのだよ。


来年、さ来年の春を忘れるなと梅の花に言っているのです。
この歌から伝わってくるのは、
左遷される悲しみや梅の花・香りに対する愛着・愛情といった情緒的なものだけではありません。
「私がいなくなっても自分のやるべきことを忘れてはいけないよ。
そして、きちんとやるべきことをやりなさい。」
引き裂かれる家人に、
または長年尽くしてきた上皇や天皇に向けてのメッセージだったのでなないでしょうか。
自己の一大事にあってなお「するべきことを怠ってはいけない」と伝えずにはいられない
生真面目さを感じます。


彼は、流される途上でも幾つもの歌を詠んでいます。
そのうちの一つ。北の方(妻)へあてて詠んだものです。


 君が住む 宿のこずえを ゆくゆくと かくるるまでも かへり見しはや

〈歌意〉
あなたの住んでいるなつかしい家の木立の梢を、
太宰府へと流されてゆく道をゆきながら、
すっかり隠れて見えなくなるまで
何度も何度も振り返って見たことですよ。


太宰府での生活は厳しいものでした。
それまで空家であった官舎の床は腐り、屋根は雨漏り(あまもり)がしていました。
井戸はさらわなければ使い物にならず、また竹垣も作り直さなければなりませんでした。
そのような状況の中で彼は体を壊してゆきます。
また、この太宰府の地で伴ってきた幼い男の子は命を落してしまいます。
失意の生活を強いられ、太宰府左遷後わずか2年で道真自身が命を失います。


今回取り上げた2首の歌は、両方とも「大鏡」と「拾遺集」に載せられています。
「大鏡」では、【第二巻の左大臣時平】のところに載っています。


【参考文献】
「大鏡 全現代語訳」保坂弘司 講談社学術文庫
「人物叢書 菅原道真」坂本太郎 吉川弘文館

平成19年8月5日


M


 東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな  



この歌は古今和歌集には採られていません。
詠み手は菅原道真です。
左遷され九州の太宰府に流される直前、自分の家の庭先に咲いている梅の花をご覧になって
詠んだ歌なのです。


【意訳】
また春が訪れ東風(こち)が吹くようになったなら、
その東風に託しておまえの良い香りを私の配所(流される場所)である
筑紫の太宰府まで届けておくれ、梅の花よ。
私というこの家の主人がいなくなったからといって、
春を忘れてはいけないよ。春が来たらきちんと咲くのだよ。


来年、さ来年の春を忘れるなと梅の花に言っているのです。
この歌から伝わってくるのは、
左遷される悲しみや梅の花・香りに対する愛着・愛情といった情緒的なものだけではありません。
「私がいなくなっても自分のやるべきことを忘れてはいけないよ。
そして、きちんとやるべきことをやりなさい。」
引き裂かれる家人に、
または長年尽くしてきた上皇や天皇に向けてのメッセージだったのでなないでしょうか。
自己の一大事にあってなお「するべきことを怠ってはいけない」と伝えずにはいられない
生真面目さを感じます。


彼は、流される途上でも幾つもの歌を詠んでいます。
そのうちの一つ。北の方(妻)へあてて詠んだものです。


 君が住む 宿のこずえを ゆくゆくと かくるるまでも かへり見しはや

〈歌意〉
あなたの住んでいるなつかしい家の木立の梢を、
太宰府へと流されてゆく道をゆきながら、
すっかり隠れて見えなくなるまで
何度も何度も振り返って見たことですよ。


太宰府での生活は厳しいものでした。
それまで空家であった官舎の床は腐り、屋根は雨漏り(あまもり)がしていました。
井戸はさらわなければ使い物にならず、また竹垣も作り直さなければなりませんでした。
そのような状況の中で彼は体を壊してゆきます。
また、この太宰府の地で伴ってきた幼い男の子は命を落してしまいます。
失意の生活を強いられ、太宰府左遷後わずか2年で道真自身が命を失います。


今回取り上げた2首の歌は、両方とも「大鏡」と「拾遺集」に載せられています。
「大鏡」では、【第二巻の左大臣時平】のところに載っています。


【参考文献】
「大鏡 全現代語訳」保坂弘司 講談社学術文庫
「人物叢書 菅原道真」坂本太郎 吉川弘文館

平成19年7月27日


L

〈詞書〉朱雀院のならにおはしましたりける時に、たむけ山にてよみける
〈このたびはぬさもとりあへず たむけ山 紅葉(もみじ)のにしき 神のまにまに   すがはらの朝臣(あそん)〉
〈巻第九 き旅歌 通し番号420〉


   【菅原道真(すがわらのみちざね)】の歌です。
【道真】の歌は古今和歌集の中では2首しか採られていません


【道真左遷(させん)】←901年
【道真左遷の首謀者であった藤原時平が醍醐天皇の信頼を受け、ただ一人の実力者となる】
【道真太宰府(だざいふ)にて没】←903年
【古今和歌集編纂の命が醍醐天皇より友則・貫之らにくだる】←905年
【道真左遷の首謀者であった藤原時平没】←909年
★友則・貫之が古今和歌集編纂に着手した最初の何年間かは
まだ時平が朝廷で絶大な権力を握っていたわけです。★
時の権力者の意向にそわない者の歌を多数採ることははばかられたことでしょう。


ところで、冒頭の歌です。

〈詞書〉
朱雀院(すざくいん)とは、道真を非常に信頼し破格の地位を与えた宇多天皇のことです。
天皇の位を退いた後、宇多上皇となったのですが、
その時彼は、朱雀院・亭子院(ていじいん)・宇多院などいろいろな呼ばれ方をしていました。
その朱雀院が奈良に旅行された時にそのおともとしてご一緒して、
途中通った手向山(たむけやま)でこの歌は詠んだのです。
道真、得意の絶頂時に詠んだ歌です。


〈歌の中の分かりにくい語句〉
ぬさ(幣)=神様にささげるお供え物(おそなえもの)
錦(にしき)=金糸・銀糸など五色の糸でいろいろな模様を織りだした厚地の絹織物。
※「錦」はよく「幣(ぬさ)」として使用されました。


〈歌意〉
この度(たび)の旅は急に行くことが決まりましたので、
神様に捧げるお供え物(幣=ぬさ)を持たないで来てしまいました。
しかし、幸いなことには、この手向山(たむけやま)には、
山の紅葉(もみじ)が作り上げている見事な錦があります。
どうか神よ、この錦をお心のままにお召しください!


手向山の紅葉が素晴らしくて、それに感動して詠んだ歌だと思われます。
響きも力強く、紅葉の素晴らしさが迫ってきます。
しかし、なんというか少しちゃっかりした感じがしてしまいます。
神様へのお供え物を忘れたのに、また、自分のものでもないのに、
「この素晴らしい紅葉を我々からのお供え物としてお受け取りください」
と神様に向かって言っているわけですから。


たったの2首しか選ばれていない歌の1首がこの歌なのです。
「得意の絶頂でこのような思い上がった歌を詠んだ男の最期は、
ほれあのようにみじめなものであったよ。」
この歌なら、道真を左遷した時の権力者たちもOKを出したことでしょう。


【道真】は、学者でしたが、和歌もよく詠みました。
【友則】や【貫之】が【道真】に好感を持っていたかどうかは分かりませんが、
同じ歌を詠む者として、
【道真】の名を残してやりたいと考えたとしも不思議ではありません。
 内容はいま一つではあるけれど、この歌の響きは強く道真の才を伝えるのに十分。
選者たちが、必死で選んだ1首だったのではないでしょうか。
平成19年7月9日


K


「やまとうたは、人のこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける。」
【訳 和歌は、人の心を種(基)としてたくさんの言の葉(和歌)となったのである。】
紀貫之の作となる古今和歌集の前書きです。
この古今和歌集の前書きは、仮名で書かれていましたので、
【仮名序(かなじょ)】と呼ばれています。
これに対して後書きは、漢字(真名)で書かれておりまして
【真名序(まなじょ)】と呼ばれています。


   「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、
めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ、
をとこをむなのなかをもやはらげ、
たけきもののふの心をもなぐさむるは
うたなり。」
【仮名序】は仮名(平仮名)で書かれていますので、原文どおり書き写してみました。
読みにくいですね。


漢字を使って書き写してみます。
かなり意味が分かりやすくなります。
「力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思わせ、
男女の仲をも和(やわ)らげ、
猛(たけ)き武士(もののふ)の心をなぐさむるは
歌なり。」


では、訳です。
「力も加えないで、天地を振動させ、
目に見えない鬼や神に『ああ、感動した』と思わせ、
男と女の間柄を親密にさせ、
勇ましい武士の心をもなごやかにする、
それこそが歌である!」
貫之の歌への思い入れ、
または天皇の命令を受けて和歌集を作り上げたことへの喜び、
自分への誇りが伝わってきます。


【思ひ出づや なき名立つ身は憂かりきと あら人神になりし昔を】
「意訳 
思い出していただけませんか?
無実の罪で汚名を着せられたことをたいそうつらくお感じになり、
あら人神となられ、お恨みを晴らそうとなされた昔のお気持ちを。」
ある女房(宮中で仕事をする女性)が、
その使える妃の着物がなくなったことの罪を着せられた時に
神に向かって詠んだ歌です。


【あら人神】とは、
【もともとは人間であったが、死後、神格化された神様】のことです。
当時、【あら人神】としてもっとも怖れ敬われていたのは、
北野天満宮(きたのてんまんぐう)に祀(まつ)られている
【菅原道真公(すがわらのみちざねこう)】でした。
【天神様(てんじんさま)】です。


【菅原道真】は、藤原氏の出身ではないにも関わらず、
宇多天皇の厚い信頼を受け、【大臣職】にまで登りつめました。
しかし、【藤原時平】の画策により、
【天皇をその位から追い落とそうした】という罪を着せらてしまいます。
藤原氏のお家芸【他氏排斥】です。
【道真】は大臣の任を解かれ最果ての九州大宰府へ左遷されてしまいます。
それから2年、道真は非業の死をとげることとなります。


さて、それからです。
【時平】が39歳の若さで没した(909年)ことをはじめとし、
【道真左遷】に関わった者からその縁者までが次々と不幸に見舞われていったのです。
延長8年(930年)には、
清涼殿(天皇のいらっしゃるところ)で請雨(あまごい)の相談をしていたところ、
にわかに黒雲がたちこめ雷が清涼殿を直撃し、
ある者は即死し、ある者は顔にヤケドを負い、天皇も病気になってしまうという事故が起こりました。


これらの不幸は全て、
無実の罪を着せたらまま非業の死を遂げた【菅原道真】の祟り(たたり)
によるものを考えられました。
そして、その怒りを鎮めてもらうために、
【道真】は「北野天満宮天神」として祀り上げらたのです。


ここで先述の【思ひ出づや】の歌です。
無実の罪で罰せらようとしている女性が、
同じく無実の罪でつらい目にあった「北野天満宮天神」様に
「どうぞ、助けてくださいませ」と懇願したのです。
願いは聞き届けられ、真犯人が示されます。
これは「十訓抄(じっきんしょう)」という説話集に載っているエピソードの一つです。


【「力をも入れずして、天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思わす」、
と古今集の序に書かれたるは、これらのたぐひなり。】
とこのエピソードは結ばれています。
平成19年7月3日


J

さてホトトギスの歌が続いています。
というのも春の歌が134首もあるのに対し、
夏の歌は34首しかありません。
(夏の暑い中では、歌を詠む気にもなれなかったでしょうし、
夜になり、やっと涼しくなっても落ち着いて物思いにふける暇もなく夜が明けてしまったことでしょう)
そして驚くべきことに、その34首のうち28首を「ホトトギス」の歌が占めているのです!


    ◎夏の夜のふすかとすれば郭公なくひとこゑにあくるしののめ◎ 
*ここでは「郭公」は「ほととぎす」と読みます。
(きのつらゆき 古今和歌集 巻第三 夏歌 通し番号156)
【訳 夏の夜は寝たかと思うやいなや、ほととぎすの鳴く一声でもう東の空が明けそめることだよ!】


【夏歌】の部には、貫之の歌は二首採られています。
この歌はホトトギスのことを詠み込んでいますが、話題の中心はホトトギスではありません。
貫之は「夏の夜の短いことに対する驚き」を表現したのです。
みんながホトトギスの声に感慨を見出している時にです。
こういうのを「独創性がある」というのでしょう。


しかし、独創性というのはなかなか認められるものではありません。
その作品に人の心をつかむ何かがなければ、
「変わり者が変わったことを言っている」
で終わってしまうのです。


「なくひとこゑにあくるしののめ」
緊張感のある表現です。
鋭いホトトギスの一声が空気を切り裂くように響く。
ちょうどその瞬間に夜が明け始めていることに気がつく。


 (詞書 郭公のなくをききてよめる) 
 【訳 詞書 ほととぎすの鳴くのを聞いて詠んだ歌】
◎五月雨(さみだれ)のそらもとどろに郭公なにをうしとかよただなくらむ◎
(つらゆき 古今和歌集 巻第三 夏歌 通し番号160)
【訳 五月雨の空をとどろかすばかりに何がつらいといってほととぎすは、
夜通しひたすら鳴いて(泣いて)いるのだろうか】


【語句】
うし=憂い、かなしい、いやだ
よ=夜
ただ=ひたすら
なく=ホトトギスは夜鳴いているのであるが、ここでは「泣く」の意味も持たせている。
らむ=現在推量の助動詞
   ※ここでは、現在おきていることに対する原因を【どうして〜なのだろうか】と推量している。


貫之はホトトギスの鳴き声にひたすら感動はしていません。
逆にひたすら鳴き続けるホトトギスに対し「どうしてそんなに鳴くのか。」という感想をいだくのです。
冷静で客観的な疑問です。


この対象と同化しない冷静さ・客観的思考回路は貫之の特徴の一つです。
理性的・理知的なのです。
だからこそ、膨大な量の歌の数々を取捨選択し古今和歌集を作り上げることができたのでしょう。
平成19年6月7日

I

〈(詞書)寛平の御時の后の宮の歌合わせのうた〉
◎五月雨(さみだれ)に物思ひをれば郭公夜(よ)ふかくなきていづちゆくらむ 紀とものり◎
(古今和歌集 巻第三 夏歌 通し番号153)
*ここでは、「郭公」は「ほととぎす」と読みます。


   〈詞書〉訳 寛平の御時の后の宮の歌合わせの時に詠んだ歌。


〈和歌〉意訳 しとしとと降り続く五月雨(さみだれ)に物思いにふけっているといつしか夜もふけた。
折から闇の空にほととぎすの鋭い声が響き渡った。いったいどこへ行くのであろうか。


五月雨(さみだれ)・・・初夏(陰暦5月ごろ)しとしとと降り続く長雨。梅雨。
歌合わせ(うたあわせ)・・・平安時代初期から鎌倉時代に流行した文学的遊戯です。
  参加者が二組に分けられ、決められた「お題」の歌を詠み優劣を競いあいました。
参加者が歌詠みであれば、己の誇りと名誉をかけて臨んだ席でした。


「歌合わせ」といえばよく知られたエピソードがあります。
平兼盛(たいのかねもり)と壬生忠見(みぶのただみ)の話です。
天徳四年(960年)の内裏歌合わせの席です。
二人は、「忍ぶ恋の歌」というお題のもとそれぞれに和歌を詠みました。
その歌は両方とも「小倉百人一首」に採られていますので、ご存じの方も多いかと思われます。


【平兼盛の歌】
忍れど色に出(い)でにけり わが恋は 物や思ふと人の問ふまで
[心の中に包み隠していたけれど、あの人を恋慕う気持ちはとうとう表情やしぐさに出てしまった! 
「恋の物思いをしているのですか?」と周囲の人々が私に訪ねてくるほどまでに。]


【壬生忠見の歌】
恋すてふわが名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか
[恋をしているという私の浮き名(評判)がその時期でもないのに早くも立ってしまった!
誰にも知られないようにこっそりとあの人を恋しはじめたばかりだったのに。]



双方優劣つけがたく、最後にはこの場に臨席されていた村上天皇に裁断がゆだねられました。
しかし、天皇も判をくだすことができません。
しかし、ひょっとした拍子に天皇は「忍れど」つぶやいてしまいます。
その結果、平兼盛が勝者となりました。
そして、負けた壬生忠見は、その悲しみから病気になり死んでしまいます。


さて、友則の歌に戻ります。
[五月雨に物思いをれば郭公夜ふかくなきていづちゆくらむ]
これも歌合わせで詠んだ歌ですから、友則の実体験とは限りません。


夜がふけても梅雨の長雨は降り続きます。
ついあれこれと物思いにふけってしまいます。
不安や不満、焦燥感いろいろな思いが取り留めもなく心に浮かび消えていったことでしょう。
その時です!
血を吐くのではないかと思われるほど凄まじく鳴くと言われている郭公の声が静寂を切り裂きます。
結びは「いづちゆくらむ(どこへ行くのであろうか)」です。
郭公のことを言いながら、彼は自分のことに思いをいたしていたのかもしれません。
自分はこの先どこへ向かっていくのだろうか、といたったたぐいの焦燥・不安です。
平成19年6月2日


H

◎〈(詞書)おとは山をこえける時に郭公のなくをききてよめる〉
おとは山けさこえくれば郭公こずゑはるかに今ぞなくなる     きのとものり(古今和歌集 巻第三 夏歌 通し番号142)◎
*ここでは、「郭公」は「ほととぎす」と読みます。


   〈詞書〉訳 音羽山を越えた時にほととぎすの声を聞いてよんだ歌。


〈和歌〉訳 音羽山をけさ越えて来たところ、ほととぎすが梢のはるかかなたで鳴いている、今まさにこの瞬間に!


友則は山中にあり、ほととぎすの声を聞きました。
その時の気持ちを「今ぞなくなる(今この瞬間に鳴いていることよ!)」で表現しています。
単に「ほほととぎすが今鳴いています。」と事実を記録・報告しているわけではありません。
「ぞ」・・・強意の係り助詞です。
「なる」・・・連体形です。(興奮気味に力が入った感じが伝わってきます。)
「ぞ」という強意の係り助詞の結びが連体形であるという「係り結びの法則」は、
なんともしっくりとくる表現法則です。


ところで友則がこんなに感激した「ほととぎす」です。
当時(平安時代)の人々にとってはどのような存在だったのでしょうか?


「ほととぎす」という野鳥は、
初夏(現代の暦では五月の末)橘の花の咲く頃になると姿を表します。
当時の人々は「その時期までは、山中にこもっている」と考えていました。
現代では、渡り鳥で5月の末になると日本に飛来することがわかっています。


また、「ほととぎす」という鳥は、
非常に激しく鳴きます。
鋭く響き渡る何か思いつめたような、胸に訴えかける声です。
凄まじくいたましく聞こえることもあれば、
時として高らかで明るい笑い声のように聞こえることもあります。
その鳴き声に平安人たちは情感を揺さぶられました。
友則は
「ほととぎす」の声の持つ雰囲気を「今ぞなくなる」の鋭く力強い表現に託しているのでしょう。


決まった時期に現れ、情感を揺さぶる声を持つ「ほととぎす」。
必然的に平安人たちは「待ち焦がれる」ということになりました。
現代でも子供たちは冬になるとクリスマスを待ち焦がれますね!


友則は、音羽山を越える時
「もうそろそろ〈ほととぎす〉の声が聞けるのではないか、聞きたいな」
と思っていたことでしょう。
声が聞こえてきた時には、うち震えんばかりに感激したのです。
友則の素直さ・純粋さを感じます。
それが他(政治的に権力を握ることなど)に対するあきらめがあるからこその素直さ・純粋さだとすると
いたいたしさも感じ、ああ〈ほととぎす〉に通じるものがあるなと思えてきます。
平成19年5月31日


 G

◎〈(詞書)きのとものりが身まかりにける時よめる〉
あすしらぬわが身とおもへどくれぬまのけふは人こそかなしけれ
(古今和歌集 巻第十六 哀傷歌 つらゆき 通し番号838)◎


   〈詞書〉からも分かるとおり、【紀友則(きのとものり)】が死んだ時に、【紀貫之(きのつらゆき)】
が詠んだ歌です。
※「みまかる」は、【この世から去る。死ぬ】という意味です。
【身】が
【(この世から)罷る(”まかる”と読みます。意味は、”退出する・おいとまする”)】
という語の成り立ちです。


次にこの和歌を意訳してみます。
【意訳:自分だって明日のことは分からない。
しかし、明日にならない今日
(生命が尽きないで生きている今という意味も掛けています)
は、人(友則)が死んでしまったことが悲しいことだなあ。】
です。


貫之は、素直に「友則の死が悲しい」とは述べていません。
「【とりあえず今日は】友則の死が悲しい」と述べているのです。
普通、親しい人が死んだ時に、
「とりあえず今日は、悲しい」などとは決して言いませんよね。


本音なのでしょうか?
それとも、素直に自分の心をさらけだすのを避ける性格だったのでしょうか?
それとも、よほど淡白な性格だったのでしょうか?
それともこう言わなければならないようななんらかの事情があったのでしょうか?


友則の死は、古今和歌集編纂の途中でしたから、
(一族のそして、各々個人の存亡をかけた大仕事のです!)
悲しみにうちひしがれている場合ではなかった、というのも事実です。
しかし、そればかりではなく貫之の性格・二人の関わり方など
様々な原因を想像することができます。
興味が尽きません。
平成19年4月30日


 F

最近はもう桜もすっかり葉桜になってしまいました。
桜の花は咲いてから散るまでほんとにあっという間です。
平安人は、
こんなはかない存在に深い思い入れを持ち、感動し尽くしたのです。


   ところで、「紀貫之(きのつらゆき)」「紀友則(きのとものり)」についてです。
二人とも「紀」という姓(苗字)が一致しています。
このことから何か関係がありそうな気がしますが、
実は二人は従兄弟同士なのです。(年齢は友則のほうが随分上ですが)


紀氏(紀の一族)は、友則や貫之が活躍する以前は
(二人の立場に立っていえば、「かつては」という感じです。)
政治的にもかなりの実力を持った一族でした。
しかし、藤原氏の台頭とともに政治的にはその権力を削ぎ落とされてしまいます。
「藤絡まりし木(紀)は枯れんずらん」
(少し表現が違うかもしれません)
この言葉には、藤原氏の台頭により紀氏が衰退していくことが象徴的に表現されています。
藤原氏の繁栄が描かれた「大鏡」の中に記されています。


そのような状況の中にあって紀氏は芸能(具体的にいえば和歌を作ること)
に活路を見出すしかないという厳しい状況にあったのだと思われます。
彼らは、伊達や酔狂で和歌を詠んでいたのではないのです。
「和歌ならば紀氏」と権力者から認められなければならなかったのです。
この必死さが、言葉に研ぎ澄まされた迫力を与えているのだと思います。
貫之の技巧は冴え、
友則の和歌は現代人が読んでもこちらが痛みを感じるほどにどこまでも優しく穏やかです。


さて、この二人は【凡河内み恒(おおしこうちのみつね)】、【壬生忠岑(みぶのただみね)】
らと共に「古今和歌集」の編纂を【醍醐天皇】より命じられます。
「和歌ならば紀氏」と権力者から認められたのです。
感激ひとしおであったことでしょう。


編纂は当初は、友則が中心になって行われました。
しかし、友則は古今和歌集が完成する前に突然亡くなってしまいます。
その後は、貫之が中心になり
この日本で最初の勅撰和歌集(天皇の命令によって作られた和歌集のことです)
を完成させました。
平成19年4月28日


 E

◎〈(詞書)桜の花のちるをよめる〉
久方のひかりのどけき春の日にしづ心なく花のちるらむ
(古今和歌集 巻第二春歌下 きのとものり 通し番号84)◎


   「小倉百人一首」にも採られている有名な歌です。
平易な表現で書かれており、素直な感情が詠み込まれています。
この歌を詠んだ「紀友則」という人は、
決して奇をてらうようなヤマシ的な性格の人ではなく、
穏やかで誠実な人であったのだろうと想像されます。


この歌の表現や語句について考えてみます。

【久方の】・・・これは、【光】を導く【枕詞】です。
【枕詞】とは、
【五音の言葉で、この言葉の次にくる言葉が限定されている言葉】です。
≪例≫
【久方の】→光・天・月など
【草枕(くさまくら)】→旅
【天離る(あまざかる)】→鄙(ひな・・・田舎という意味です)
*【枕詞】自体はほとんど意味がないと考えられており、
現代語に訳す時にはだいたいの場合訳しません。


表現や語句の続きです。

【光】・・・陽光、日の光
【しづ心】・・・落ち着いた気持ち
【花】・・・この花は「桜」です。
【詞書】に【桜の花のちるをよめる(桜の花の散るのを詠んだ歌)】とあるから明らかです。
【らむ】・・・ここでは、【どうして〜だろう】という意味で使われています。
【現在の事実について、その原因・理由を疑問を持って推量するとき】に使います。
友則は、桜が散るという事実を見ながら、
どうして【しづ心なく】散っていくのかと疑問を感じているわけです。


【歌意】
〈日の光ののどかな春の一日であるのに、
どうして桜の花は落ち着いた静かな心を持たずに散っているのであろうか。〉


 「の」および「ハ行音」の多用により柔らかいリズムが作りだされています。
このことにより、今日がのどかで静かな春の一日であることを聞き手(読み手)に印象づけています。
それなのに、桜は「しず心なく」散っていきます。
見事な対比をさらりと言ってのけています。
平成19年4月19日


 D

◎〈(詞書)なぎさの院にてさくらを見てよめる〉
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(古今和歌集 巻第一春歌上 在原業平朝臣←ありはらの なりひらあそん 通し番号53)◎


   この歌の【詞書】と【背景】について考えます。
当時(平安時代)、時の権力を握っていたのは、【藤原氏一族】でした。
【藤原氏一族】は、娘を天皇に嫁がせ天皇の子(次期天皇)を産ませる、
などの権謀術数を巡らせ、時の権力を握りました。


【惟喬親王(これたかしんのう)】という【文徳天皇の子供】がいました。
彼の母は、文徳天皇に深く愛されていました。
しかし、彼は【天皇位】を継ぐことはできませんでした。
なぜなら、彼の母は【紀名虎(きの なとら)】の孫だったからです。
当時【紀氏(き し)】はすでに政治の表舞台で権力を握る立場には
なかったのです。
【藤原良房】を外祖父とする文徳天皇の第四皇子惟仁親王(これひとしんのう)が
天皇位を継ぐことになったのです。
政治的には不遇だったわけです。




さてこの和歌を詠んだ【在原業平】です。
彼も実は、もともとは皇族だったのです。
しかしながら、彼の父【阿保親王】は政治的事件(薬子の変)に
巻きこまれて左遷されてしまいます。
その後、業平ら兄弟は、皇族という立場を捨てざるをえなくなり、
【在原】の姓を名乗るようになるのです。
政治的不遇です。

 「昔、男ありけり。その男、身を要なきものに思ひなして、
京にはあらじ、あづまの方に住むべき国求めにとてゆきけり。」
(昔、一人の男がおりました。その男は、自分の身を
必要とされていない存在だと思いこみ、京に住んでいても仕方がない、
京になど住んでなどいるものか、どこか東のほうに自分が住んでも
よい国を見つけようと考え、旅に出ました。)
【伊勢物語】の有名な冒頭です。
【伊勢物語】の主人公は在原業平と考えられています。


業平が旅に出た理由や政治的に不遇だった理由を
彼の奔放な性格や女性問題にもとめる説が有力なのですが、
やはり、〈藤原一門の出身ではない〉ということも理由の一つとして
挙げてもよいのではないかと思います。


さて、この政治的に不遇だった業平は、 やはり政治的に不遇であった惟喬親王に終生、 変わらぬ忠誠を尽しました。

【詞書】は、【なぎさの院にてさくらを見てよめる
(渚の院で桜を見て詠んだ歌)】です。
渚の院←河内国(大阪府)交野(カタノ)郡・渚にあった
文徳天皇の離宮(別荘)です。後に惟喬親王の御領となりました。
業平は、惟喬親王に従ってこの渚の院をしばしば訪れています。
この歌を詠んだのは、桜の季節に渚の院を訪れた時に詠んだ歌だと思われます。
平成19年4月15日


C

◎〈(詞書)なぎさの院にてさくらを見てよめる〉
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
(古今和歌集 巻第一春歌上 在原業平朝臣←ありはらの なりひらあそん 通し番号53)◎


   在原業平といえば、「平安随一のプレーボーイ」として有名な貴公子です。
ところで、かつて日本人は「貴公子が不幸な境遇に陥り遍歴する」という 「貴公子漂流譚」が大好きでした。
たとえば、「源義経」が兄「源頼朝」に追われて逃げ落ちていくお話などです。
欧米では「勇気」がもてはやされた時代(←これは独断・思い込みです。)に、
日本人は「美しくはかないもの」に強く心を動かされていたのです。


そこで【桜】です。
【桜】といえば、【美しくはかないもの】の代表として、
古来、日本人が最も愛した花です。
花期短く美しく、春の冷涼な風が吹くと一斉にひらひらと舞い散っていく。
舞い散る姿も確かに美しいですね。


それでは、和歌の中の少し分かりにくそうな言葉の意味を記します。
「たえて=まったく、全然」
「なかりせば=なかったならば」
「のどけから=のどけし(意味:のどかだ)の未然形」
*未然形というのは、この単語のあとにどのような言葉がくるかで決まる活用形です。
未然形だろうが、連用形だろうが、連体形だろうがこの単語の意味は「のどかだ」という
意味で変わりはありません。
「まし=・・・だろうのに」←「まし」は、反実仮想を表します。
「反実仮想」というのは、「事【実】に【反】することを【仮】に【想】像するという
状況を表します。
しばしば【〜せば・・・まし(〜だったら、・・・だろうのに)】という形で使われます。
例えば【ケーキなかりぜば太らざらまし】(ケーキがなかったら、太らなかっただろうのに)
という感じです。
品詞は、助動詞です。
「助動詞」というのは、前の単語(動詞や形容詞です)にくっついて、
その単語に微妙で大切な意味を与える言葉です。


では、和歌を訳してみます。
【この世の中にまったく桜の花がなかったならば、
(桜よ、散らないでおくれなどと思うこともなく、)
春という季節を過ごす時の心(気持ち)はのどかなものであろうのに。
(↑春をのどかな気持ちですごすことができるのに。)】  


【詞書】や【背景】も興味深いのですが
また次の日に書いていきます。


【平成19年4月12日】 B

◎「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香に にほひける」
(古今和歌集 巻第一春歌上 紀貫之←きの つらゆき)◎


   小倉百人一首にも採られている歌です。

ここで話題にされている花は「梅」です。
古今和歌集には、「詞書(ことばがき)」というものがあります。
和歌を詠んだ背景などが書かれた短い「解説」です。
それに、「・・・むめ(梅)の花を折りてよめる(梅の花を折りとって詠んだ歌)」
(この和歌に付けられた詞書は少々長いので一部抜粋です!)
とあるから、「梅」だと分かります。


それでは、和歌の中の少し分かりにくそうな言葉の意味を記します。
「いさ=さあ、どうだか」「知らず=わからない」「ふるさと=昔なじみの宿」です。


この和歌は、貫之が初瀬観音に詣でるたびに泊まっていた宿の主人に、
長い間行かずに久し振りに行って会ったら、
「こうしてここには宿があり、私もお待ち申し上げていましたのにずいぶん来てくれなかったじゃないですか。」
というようなニュアンスで責められた時に詠んだ歌なのです。
(「詞書」に書かれています。
興味を持たれた方は、本を手に入れて読んでみてください。
「古今和歌集 巻第一春歌上」に入っています。
通し番号42。←本によっては、この通し番号は無いかもしれません。)の歌です。


それでは、和歌を訳してみます。
「さあ、どうだか、私のことを本当に待っていたのでしょうかね。口先だけじゃないんですか。
人の気持ちなんてわかりませんからね。
ただ、この梅の花の香りだけは、昔も今も変わりありませんがね。」


この歌を詠んだ貫之の真意は、額面どおりの皮肉なのでしょうか。
それとも宿の主人への親しみをこめた戯言なのでしょうか。
それはわかりませんが、想像すると楽しいですね。
( 2007年4月9日 記 )


A

「香り」と「体験」と「記憶」は深く結び付いています。
たとえば、「金木犀」の甘くさわやかかおりをかぐと、
幼い日々を過ごした実家の庭を思い出すというふうに。


古典の時代の人々もそうだったのです。
それでは、平安時代の「古今和歌集」より、香りにまつわる和歌です。


◎「五月待つ花たちばなの香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今和歌集 よみ人知らず)◎

  平安時代には、衣服に香をたきしめる慣習がありました。
衣類にたきしめる香は、各人が好みで調合していましたから、特定の香りと特定の人物が結びつく
わけです。
「特定の人」というのは、ここでは「かつての恋人」でしょう。
恋人でもない人の香りを覚えていることはまずないでしょうし、
たとえ覚えていたとしてもそれをとりたてて和歌にする人はまずいないはずです。


「花たちばな」とは、「たちばな(今のこうじみかん)の花」のことです。
香りの高い白い花です。
その花たちばなの香りを嗅いだ時に、
日常の中では、もう思い出すこともほとんどなくなってしまった
昔の恋人またその恋そのものが鮮烈に思い出されたのです。




@

 カントリーの住人である「カントリー空気」管理人は、
古典にも捨てがたい魅力を感じています。


ここで言う「古典」とは、「古今和歌集」や「源氏物語」などの古典文学全般のことです。
そこに登場したり、そこで和歌を作る人間は、現代人以上の細やかな感性で
「植物」や「自然」と向き合っています。


「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃(山家集 西行)」
(訳 私の願いとしては、桜の花の下で 桜の花の咲く春に死にたい。
いつ私が死ぬかはまだわかりませんが、私が死ぬ年のその二月の満月の頃に。)
などといった気持ちは現代人にはなかなか持てません。


  西行は平安時代末期の歌人です。
平安時代は、月も花も天気の変化も季節の移り変わりも何もかもが現代よりも
はるかに身近にあったのです。


 とはいえ、和歌集の中には、自発的に内面からつきあげる衝動として
詠まれたものではなく、自分より上位の者(代表格は天皇です)に余興のためなどに
「詠め」と命ぜられて詠んだ歌も多数あるのですが。


 というふうにあくまで主観に基づく古典鑑賞を綴っていきたいと思います。
文法的、解釈的、時代考証的に間違ったことを書くかもしれません。
あくまでも「思い込み」に基づいた文章ですが、お時間がございましたら
読んでくださいませ。


【平成19年4月3日】





【目次】

1≪カントリー空気≫―文学や植物(2008年度)―・・・トップページです
2平安時代人と月
3本の紹介(絵本やマンガなど)
4古本販売(絵本)
5今日の天気、時々我が家の植物
6ギャラリー・・・管理人制作のハンギングバスケット・寄せ植え・モストピアリー

《その他》
7ご注文方法・発送方法
8ご注文フォーム
9お問い合わせフォーム (わからないことなどございましたら、遠慮なくお問い合わせください。)
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《2007年バックナンバー》
1カントリー住人による思い込み古典講座
2植物にチャレンジ!―管理人の失敗もある植物体験記録―・・・継続観察中の植物に関しましては、更新していく予定です。・・・